僕の手で頸動脈を切り、
この手の中で命を絶った鶏の
鶏肉を自分で食べた。
その鶏肉はとても硬かった
通常、スーパーで売られている、
肉用種のブロイラーとは異なり、
卵用種のにわとりで、しかも、
平飼いで自由に動いていた鶏の肉。
その肉は筋肉のかたまりみたいなもの。
でも、鶏肉にはゆっくり、じっくり
噛むことで深い味わいがある。
いま、僕が食べた肉は、
今日の朝はまだ”にわとり”だった。
僕が殺さなければ、もしかしたら、
明日の朝も”にわとり”だったのだろう。
しかし、
たまごを産まなくなった理由で、
本来15年続く命を絶たれ、
いまさっき鶏肉に変わった。
そして、それを僕が食べた。
このとき、
「自分は生きているんだ」
ということを実感したと同時に、
1つの疑問が心に湧いてきた。
その疑問は、自分は自分の人生を
”きちんと生きようとしているのか?”
というものだった。
さっき、この鶏肉の命は、頸動脈を切られても、
自分の意識が消え失せるまで、
最後まで”生きよう生きよう”としていた。
でも、それを食べて生きている自分自身が、
自分の人生をどこか否定していた。
命の最後まで生きたかった”にわとり”は
自分の人生を否定する人の命を繋ぐために、
命を絶たれたと思えたとき、
”にわとり”へ申し訳ないという気持ちと、
自分の人生を否定する考えが
とても傲慢に思えたときだった。
「いただきます」しっていますか?
ファームカウンセリング 空
自然の中でカウンセリングしています。
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