昨日の記事の続き
強い抗がん剤での治療が続き、
父親の体力も限界にきていた頃、
自分も、兄も、母親ももうダメかもと思いはじめ、
たぶん、主治医も限界だと感じていた頃、
1つの奇跡が起こった。
その強い抗がん剤が効きはじめてきた。
そして、父親のがんの進行が一時的にとりまり、
少しずつだけど食事が食べられるようになり、
徐々に体力が回復していいった。
この時、父親はがんに勝ったのだと思った。
父親は治ることを生きることをあきらめていなかった。
この父親の強い精神力に比べればうつの自分は、、、、と感じた。
そして、しばらくしてから、
主治医から父親も含め家族全員が呼ばれ、
1つの話ががあった。
それは、一時的な退院許可の話。
今の抗がん剤で効果があり、
体調もある程度安定していることで、
奇跡的にも退院が許可された。
これは父親が入院してから、
願っていたことだった。
ただし、主治医から退院の条件として、
何かあればすぐに病院に来られること。
2週間に1回の抗がん剤治療に来られること。
があげられた。
自分の実家は埼玉で、病院は都内だった。
実家から病院まで、
電車で90分・車で高速を使って40分程度の距離だった。
退院はできたとしても、車いすと酸素吸入が必要な父親にとって、
まず、電車で病院まで来ることは体力的に無理だった。
そして、兄は仕事で忙しく、休みを取ることはできず、
母親は高速道路を運転することはできない。
そんな状況だったので、主治医の話が出たとき、
その条件をクリアできるのは仕事をしていない
フリーな自分が父親の送迎をするだった。
この話を聞いたとき、今の自分なら出来ると思ったし、
兄は母から、よろしく頼むと言われた。
でも、兄と母親からよろしくと言われたとき、
正直複雑な気持ちだった。
その頃の自分は、仕事をしていない自分に対して、
まだ自分自身を認めていなかった。
そんな思いがあるから、兄や母親に対しても、
こんな自分で「ごめんなさい」という罪悪感を感じていた。
しかし、仕事をしていない、こんな自分がいたからこそ、
父親が退院出来る条件をクリア出来るという事実。
もし、焦って就職をして仕事をしていたなら、
父親が退院が出来なかったかもという事実。
この矛盾に複雑な心境だった。
そんなこんなで、
実家での父親の受け入れ体制を整え、
父親の念願だった退院日になった。
父親は調子が悪いから
検査してくると行ってから、
そのまま即入院だった。
だから、家でやりたい事が
沢山あったのだと思う。
数ヶ月ぶりに実家に父親が戻ってきた。
自分の子どもたちにとって、
今まで実家におじいちゃんがいるのが当たり前で、
いつも一緒に遊んでくれたおじいちゃんだった。
だから、子どもたちも、ある日、おじいちゃんが、
突然、実家からいなくなったことを
子どもなりに感じていたのだろう。
だから、戻ってきたおじいちゃんをみて、
子どもたちもとても喜んでいた。
ただ戻った時は、少しやつれて、もう一緒に遊ぶ事ができない
おじいちゃんだったけど、家にいるだけでも、
よかったのだと思う。
この時に、家族の事であれば、
どんな事でも優しく受け入れられる
家族の本当の暖かさや優しさを感じたような気がした。
そして、それから父親との通院生活が始まった。
すいません、当時の事を思い出し、
なんだか感情的に文章を書いているので、
文書がうまくまとまりません。
続きはまた明日書きます。
今日も1日ありがとうございます。
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