昨日の記事の続き、
自分の価値観として存在していた、
「父親たるもの・・・」の価値観の存在、
それは、自分の父親と自分をどこか比べていて、
それが価値観として心の中に存在していた。
そして、仕事をしていた頃はその価値観を満たしていたと思う。
その価値観を細かく砕いてみてると、
自分が下記の様な事に充足感を感じていたと思う。
・都内でスーツを着て働いていること。
・インテリジェントビルでクールに働いていること。
・一部上場の大企業であること。
・管理職であること。
・人より少し多い給料であること。
・おしゃれなお店でランチを食べること。
・ちょっと時間にスタバでコーヒーを飲むこと。
砕いてみると、ほとんど社会的な視点から見た、
ところに充足感を感じていて、それが価値観となり、
時にはそれが、自分の原動力となり、
時にはそれが、自分を苦しめる要因にもなっていた。
そして、
今の自分は、基本は主夫で、
週2回知り合いの農家で手伝いをしている。
それも細かく砕いてみると、
・埼玉の田舎で作業着で働いている。
・炎天下の中で、汗と土にまみれ大地の上で働いている。
・大企業ではなく個人経営の組織。
・仕事を日々教えてもらう。(仕事を理解出来ていないので)
・給料は現物支給(野菜だけ。)
・ランチは自家野菜をベースとした野菜料理。
・大地の上で地べたに座ってお茶を飲む。
こう考えると、今までの価値観とは逆の行動をしている自分がいる。
自分が農家で働く事になったきっかけは、
当初最初うつ病から社会復帰のリハビリとして
仕事の休職期間中に、
ここの農家へ泊まり込みで手伝いをしたことだった。
そして、その時、最初に言われた仕事が、畑の草むしり、、
この時に感じた正直な気持ちは、
「なんでこの俺が草むしりをしなければならないのだ!。」
「なんでこの俺が無給で言われた仕事をしなければならいのだ!」
というような思いだったと思う。
きっと、その時の思いは、昔の価値観から自分を見たときに、
現れた感情や思いだったと思う。
それからしばらくたった今、
自分は結局、前職の一部上場の大企業の仕事を辞めて、
今でも農家の手伝いを継続させている。
なぜ、自分は今までの価値観とは
逆の現実を選択したのだろうか?
社会的にみたら、
このご時世に大企業を辞めるなんて、
なんてもったいない事をしたのだろうかと思う。
でも、今の自分は、その時の選択を後悔していない。
たぶん、それは心の中の価値観の存在に気づき、
そして、それが今の自分にとって実は無価値だった
ということに気づいたからだと思う。
今までの価値が無価値に変わるとき、
それは、今までの自分が否定されるような感じもするが、
でも、その事を自分で素直に受け入れることが出来たなら、
心が少し軽くなるのではないだろうか。
価値が無価値に変わるとき、
それを素直に受け入れられるようになるには、
とある視点を自分自身が持っている必要があると思う。
自分もその視点で価値観を捉えることができたから、
こうやってブログで書けるようになったと思う。
そして、その視点の事とも、本田健さんの
”ユダヤ人大富豪の教え ふたたびアメリカ編”
に書いてあった。
明日、その事を書いてみたいと思います。
今日も1日ありがとうございます。
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